The Blog of TETTO

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僕の野球の経歴

小学校から高校まで野球一筋で生きてきました。

 

 

 

1.始めたきっかけ

 僕が野球を始めたきっかけはお父さんでした。

 家が多摩川から近かった僕は、土日になると毎週お父さんと遊びに河川敷に行っていました。お父さんは小中と野球をしていたため、自ずと野球をやることが多くなりました。幼稚園の頃の友達にも野球が好きで既に少年野球チームに所属している子がいたので、野球にのめり込む環境は整っていました。また、プロ野球観戦にも沢山連れて行ってもらったので、野球を大好きになっていきました。

 

2.小学校時代(少年野球&選抜)

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 僕は成長が早く、同年代の子たちと比べたら体は一回りも二回りも大きかったと思います。小学4年生になる頃には身長が150cmありましたし。6年生の卒業の頃には172cmもありました。そのため、パワーがあるのはもちろん、足も小学校の時点で6秒台で50mを走ったこともありますし、球速も120kmは超えていました。なので、当然ホームランはたくさん打てましたし、ヒットを打たれることもほとんどありませんでした。6年間で記憶の限りでは42本のホームランを打ちました。同学年のチームメイトもかなりレベルが高かったため、人数はさほど多くはないものの、地区では1位、市では3位とそこそこの結果も残せました。小学6年生の夏には、ジャイアンツJr.のセレクションで合格し、現中日ドラゴンズの根尾昂選手等と同じフィールドに立って試合をしました。しかし、昔から体が異常なほどに硬かったので、怪我はかなりしました。小学校で計3回野球肘を患いましたし、5年生の時期には股関節の剥離骨折もしました。

 

3.中学校時代(シニア)

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中学2年時(ベイスターズカップ

 中学生になると学校の軟式の部活には入らず、硬式のシニアリーグに進みました。入部したてから、試合に多く出させてもらい、バッティングを買われて一つ上の学年の試合にも、中軸として出場させていただきました。この頃から、僕の本職は外野手になりました。自分の代になり、僕は副キャプテンとなり、100を超えるチームの主たる立場に置かせていただきました。そして、3番センターとして、秋の南関東大会優勝。夏の関東大会3位と充実した結果を残すことができました。しかし、この中学生時代も怪我の癖は治らず、怪我人→復帰を繰り返していました。2年生の頃には、腰椎分離さらには膝に違和感もありました。この違和感が後に大きく帰ってくる事はまだ予想もしていませんでした。

 

4.高校野球

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高校最後の試合(制服が僕です)

 高校の進学先を決める最中も怪我はありましたが、声をかけて頂いたところは多々あり、無事に特待生として西東京の高校へ進学することができました。僕は寮生活をしたかったので、寮にある高校に入学できて本当によかったです。しかし練習はかなりハードで、入学後1ヶ月でまた膝の怪我を再発してしまいました。そして、その膝をMRI検査とCT検査をすると、手術が必要とのことでした。遊離帯摘出の手術を行いました。発症してすぐであれば、移植で前と同じ状態に戻すことが可能でしたが、中学2年生の頃の違和感がそれだったので、摘出でしか対応できないものになっていました。要するに、完全に治す事は不可能だったのです。それでも冬には復帰し、Aチームに入ってプレーすることもありました。しかしまた厳しい練習に耐え抜く体はもう無く、すぐに怪我を振り返してしまいました。そして、そのひとつ上の代は甲子園でベスト4になりました。僕は、その甲子園期間中に、マネージャーに転身する決意をしました。

 自分の代では主力として試合に出れるものだと思っていたが、それは叶わなかった。ですが、マネージャーに就任したことにより、自分の人生には大きな転機になりました。

 

次の記事では、第二の人生について話していきたいと思います。